意外と発達あるあるかもしれない「知識の呪縛」
暮らし
数ある認知バイアスの中に、「知識の呪縛」というものがあります。これは「自分が知っているから相手も同様に理解している筈だ」という思い込みで、相手が既に理解している前提で話してしまうことです。当然、相手が何も知らなければコミュニケーションは平行線となってしまい、説明や折り合いに余計な手間を要してしまいます。定型発達でも教職ならよくあることだそうです。
知識の呪縛は割と“発達あるある”な部分もあります。ASDによくあることの一つに「相手の立場を想像しにくい」というものがありますが、まさに相手の理解や知識量や習熟度といったものが想定できず「知識の呪縛」で失敗しがちです。例えるなら、ハンバーガーの概念すらない地域にハンバーガーを教える困難を常に抱えているようなものです。
ここで何が分からないかすら分からず質問したが最後、1から10まで理解できるよう冗長な説明が始まってしまいます。せめて「ここが分かりません」と具体的に明かしてくれれば、説明もだいぶ絞れる筈なのですが、理解ゼロの曖昧な「分かりません」をぶつけられればASD持ちにはもう全てを詳細に解説しなおすしか方法がない訳です。逆に「理解ゼロは置いていく」というスタンスで突き進むのも、加減の苦手な表れでしょう。
知識の呪縛で失敗しないためには極論、相手が無知な初心者である前提で話を組み立ててやればいいのですが、いちいちゼロスタートに合わせるのは率直に言ってキツイです。いわば「発達の特徴を知らない支援教諭」や「関西ローカルCMを知らない関西人」のような、知識量がゼロどころかマイナスへ突き抜けているケースは往々にしてあり、寧ろ知らない方がマジョリティであることの方が多い気がします。私の経験では「空耳アワー」の説明をせねばならなくなったことがあります。
誤解のなきように伝えておきたいのは、ASDに質問するなという話ではないことです。分からない箇所を整理して質問すれば、ASDであろうとなかろうと答える余地はある筈ですので。自分で調べられる分は調べ、どうしても分からない所は質問する、そうした仕分けは“配慮”というより“基本”だと思います。“基本”が“配慮”として忌み嫌われ、蔑ろにされて成り立った定型世界では理解が及ばないかもしれませんが。