「共感性羞恥」が攻撃に使われていた話

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Photo by Caleb Woods on Unsplash

誰かが恥をかく様子を見ると自分まで恥ずかしくなる感覚を「共感性羞恥」といいます。見ていてこっちが恥ずかしい、居た堪れないといったあの感情です。実際は恥ずかしいと感じたのは自分だけで当人は何も感じていない場合もあるため、「観察者羞恥」とも呼ばれます。

こうした気持ちはしばしば「他人の心の機敏に共感できる、繊細で優しい人」として擁護されますが、果たしてそれで説明がつくのでしょうか。まるで、押しの弱さや優柔不断さを「自分は優しい性格だから」と言い聞かせるような欺瞞を感じます。恥への感覚が鋭いからといって他人に恥をかけない訳でもないでしょうし、他人の痛みに敏感だからこそ効果的な責め方が分かるという向きもありますから。

「共感性羞恥」は時として、ネット上で攻撃のために使われることもあります。具体的には、「恥をかいた誰かのために、自分が代わりに怒ってあげている」という感覚で、これを挙げられることが多いです。その「恥をかいた誰か」というのが曖昧かつ不明瞭なので、厳密には「観察者羞恥」と呼ぶべきなのでしょうが、どのみち根っこが「自分が恥をかかされたことへの恨み」であることに変わりはありません。

なぜ共感性羞恥を掲げた攻撃があると言い切っているのかといいますと、「恥をかかされた」という被害者感情が見え隠れしているからです。被害者感情は他者を攻撃する理由であり、正当化であり、動機付け。自分が被害者だと信じているからこそ、際限のない執拗な攻撃が可能となります。そこに観察者ではなく共感性のほうを掲げているのも、恥をかいたイマジナリー誰かの為に戦うという自己陶酔や自己正当化のエッセンスが感じられます。

多分、「うっせえわ」が流行っていた頃が共感性羞恥のピークだったと思われます。名前だけ知っている程度の割合が多かったので、とりあえず言ってみる「ニセ共感性羞恥」が最頻だったのもあの頃でしょう。どのみち、自分が抱いた感情の発露について責任を持ちたがらない人々が可視化されたという点では非常に大きな意味を持つ時期だったと思います。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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