自分が「障害者」と気付くまで

暮らし 発達障害

出典:Photo by Christopher Burns on Unsplash

僕は、2年前に「パニック障害」と診断されましたが、症状が全く改善されず主治医の先生から検査を勧められて受けた結果、去年「広汎性発達障害」と診断され、その併存疾患として「うつ」「強迫性障害」とも診断されました。

「広汎性発達障害」は先天性の障害です。障害の特性や僕自身の家庭環境、経験してきたことや困ったことを思い返せば、思い当たる節が多くありました。僕の体験談を読んで、大人になって自分が先天性の「障害者」と気付いた人が、自身と向き合うきっかけになれば、嬉しいです。

色々体験した学生時代

僕の家庭は、一般的な家族とは違って少し複雑でした。

母と実父ではない父と祖母と僕の4人で暮らしていました。母も父も共働きで家にいることは少なく、ほとんど祖母と僕の2人で生活していました。しかし、僕が小学校2年生になる前に、祖母が亡くなったのです。

祖母が亡くなってからは、母が身の回りのことをやってくれていたのですが、母には母なりの順序というものがあるのにもかかわらず、僕が母に学校の提出物の件などで必要以上に催促してしまい、それに母自身が苛立ち怒るということが頻繁にありました。

学校では、友人に対しての何気ない一言が引き金となり、小学5年生の冬休み明けから小学6年生に上がる前の3ヶ月間「いじめ」にあいました。家庭と学校の二つの原因で「自分の発言で人の機嫌を損ねる」と気づいた僕は「自分の意見は言わず、相手の意見だけを聞こう」と考えるようになりました。

中学生になってからも、今までとは違った環境でいろんな人と関わっていくうちに、僕は「この人にどう思われているだろう」と思うことが頻繁にありました。言いたいことがあっても「嫌われないためにはどうすればいいか」という思考が働き、言えずに溜め込むことが増えていきました。いろんな環境でいろんな人と関わり、外の世界を知ったことで、「僕は他人と考えや、距離感の捉え方が少し違うのかもしれない」と意識し始めたのもこのころです。

小学校から中学校そして、高校と。どんどん大きくなっていく世界に比例して僕は、全く自分の意見を言えなくて、何でも人の意見を鵜呑みにするなど、当時の僕は他人に流される余り、自分が本当に「大切なもの」さえもあやふやな状態になっていました。そのせいか、高校2年生の時に付き合った彼女のことを優先した結果、仲の良い友人と絶交状態になり、軽い「うつ」のような症状に悩まされました。

生きづらくなっていく日々

いろいろ経験した高校を卒業した後は、小さな印刷会社に就職しました。

今までと同じように就職してからすぐに人間関係や仕事内容につまづくこととなります。会社の上司という新たな対人関係や、社会のルールなどを毎日毎日、伝えられて覚えるだけの日々が続きました。ただでさえ、就職をしたくてしたわけではない僕は、そもそもモチベーションなど無いに等しい状態です。入社1ヶ月もしないくらいで「毎日が楽しくない」から始まり、2ヶ月後には他人と自分を比べては孤独感を苛まれたり、自分の存在を悲観して否定し始めてしまいました。

ここまでくると、気持ちだけではなく身体にも異変が起こり始めます。最初に身体は疲れているのに、全く寝られないといった不眠症や、食欲が無くなり、全くご飯を食べられなくなる、食欲不振になりました。母や父は心配してくれましたが、僕は以前から人に何かを伝えることが苦手なので「大丈夫」と伝え、なんとかごまかしていたのです。身体も心も満身創痍の僕は、仕事でも注意が散漫になったり、ミスが増えたりしていました。そして、ある日僕は上司に呼び出され、長い時間叱責を受けてしまいました。そのできごとで僕の心は、完全に折れてしまいました。

就職をしてからの、あまりの変貌っぷりに見かねた父が「仕事を辞めてもいい。好きな事をすればいい」と言いました。当時の僕は、この言葉にすごく救われ、自分が好きなものをもう一度見つめ直すことができました。元々、何かをつくったり書いたりすることが好きだったので、僕はデザインの専門学校の夜間部に入学することにしたのです。

専門学校での日々

専門学校に通い始めて、やりたい事が出来る日々の楽しさからとても充実して過ごしていました。しかし、楽しい日々の中にもしんどいこともありました。それはやはり「対人関係」でした。

今まで苦労した対人関係は相も変わらず改善されずで、人の目を見られなかったり、「自分がどう思われているか」気になって仕方がありませんでした。それでも、専門学校での日々が楽しいので何とかなっていました。しかし、僕は2年生の就職活動の時期に大きな挫折を経験しました。

内定をもらった周りの人たちに、どうすればいいのか意見を聞いたり、対策をしたりと工夫して何十社と履歴書を送ったのですが、結果は全て駄目でした。その結果に対して、大きな挫折を感じた僕は「何をやっても駄目だ」「今までやってきたことはすべて無駄だった」と思い始めました。また自分を悲観したり、自分の人生に不安感を感じたり、不眠症などが原因で、仕事を辞める前よりも酷い状態になっていったのです。

就職活動に失敗した僕は、専門学校時代からのアルバイトを続けていくことにしました。このころの僕は、就職活動に失敗したことで、夢や希望も全くありませんでした。周りから就職先やプライベート先の話を聞くたびに、自分の何も代わり映えがしない日々に絶望を感じて生きていたのです。不眠症や不安感に加えて、たまに浮遊感や手足が痺れたり、身体が動かなかったり、大勢の人がいる所で息がしにくいことがありましたが、この症状もすぐ収まるのでそこまで気にしていませんでした。しかし、この生活が1年ほど続いた時に、ある出来事が起こりました。

その出来事は「父の死」でした。

突然いなくなった父、壊れていく自分

前日まで元気だった父が翌朝突然亡くなってしまったのです。僕は、絶望しました。後悔しかありませんでした。「もっと何かをしてあげたかった」「恩返しをしたかった」想うほどに無限にでてきました。亡くなってしまった以上何もできないのに、僕はまた自分を責めていました。この出来事で自分は「男」だからという「責任」を感じ始めたのです。そのため母に迷惑かけたくなかった僕は、一層アルバイトに励みました。

しかし、ただでさえ精神面に不安がある僕が、続くわけがありません。父が亡くなってから、半年後、僕に異変が起きました。以前から出ていた症状が頻繁に現れたのです。最初はすぐ落ち着くと思っていたのですが、日が経つにつれてひどくなっていきました。何もかもがボロボロの状態なのに、迷惑をかけたくないという「責任」から、迷惑をかけてはいけないという「強迫観念」に変わり、そのせいで僕は、もうまともに考えることもできませんでした。

ある日、僕はとうとう糸が切れたかのように何も感じず、全く動くこともできない状態になったのです。その時にようやく「病院に行こう」と決心し、初めて精神科を受診しました。そこで僕は「パニック障害」「強迫性障害」「うつ」と診断されました。僕は、少し肩の荷が下りた気がしました。そこから、投薬治療が始まりました。薬の効果もあり、通院する前に比べるとかなり楽になりましたが、それは最初だけです。何度も先生とカウンセリングをしたり、薬を変えたりしましたが全く改善されなくなり、先生から検査を受ける提案をされました。

再生していく自分

検査の結果、診断名は「広汎性発達障害」そして二次障害として「強迫性障害」と「うつ」でした。最初はこのことを全く受け入れられなくて、なかなか人にもいえずにいました。しかし、この障害について調べていくうちに幼少期から今までの違和感や、苦手だったこと、すべてが腑に落ちたのです。この障害について、母に相談すると「改めて自分がしたい事を考えてみなさい」といわれ、僕はアルバイトを辞めました。

今でも不安感や、うつなどの症状が現れたりしていますが、うまく付き合いながらも自分を見つめ直したりする時間を作ったり、徐々に自分の障害を周り友人や知人に開示たりできています。現在、友人の紹介で就労移行支援事業所に通っています。今まで支えてくれた人達に恩返しできるように日々訓練しています。

最後に

僕は、さまざまなことに違和感や、苦手や生きづらさがあったにもかかわらず、人に話すことができませんでした。そのせいで最初は、周りに自分の障害を伝えることも難しかったです。でも、少しだけ勇気をもって話してみるだけで、周りも理解を示してくれ、すこし生きやすくなり、僕の世界は変わっていきました。そして、僕は人に話したことで気付いたことがあります。

それは「自分は独りではない」ということです。僕の周りには、たくさんの人がいたことに気付いたのです。

今まで、僕は自分の悩みなどを人に伝えることができず、たくさん辛いことや、しんどいことを経験したりと順風満帆といえない人生でした。しかし、少しの勇気をもって、誰かに自分のことについて、何かを伝えることで少し楽になることがありました。伝えることは、思った以上に難しいことです。自分のペースでいいと思います。伝えてみてください。このコラムが、その伝えることに必要な勇気、そして伝えるきっかけになることができれば嬉しいです。

りんご

りんご

去年、「広汎性発達障害」と診断され、現在は、就労移行支援事業所に通所してます。
昔から何かを作ったり、描くことが好きな男性です。

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