障害者として今を生きている私の半生~当事者からピアサポーターへ、WRAP(元気回復行動プラン)とリカバリー
統合失調症 暮らし出典:Photo by Simon Hesthaven on Unsplash
22年前私はストーカー監禁事件に巻き込まれ、私は統合失調症になりました。
命からがら逃げて来たその先は線路でした。生きていても仕方ないと思った私は線路に飛び込む寸前で警察に保護されました。
実家の母が警察まで迎えに来てくれました。
それから2、3日間は、辛すぎる現実により、ベランダから飛び降りようとしたり、未遂を繰り返し、精神病院に連れて行かれ診察を受けました。診察時先生は、「入院しますか?」私は「はい」そう答えたとたんに右肩に注射を打たれました。 たちまち意識を失い気がつけば精神病院のベッドにいました。
そして、初めての精神病院の入院生活が始まりました。
今では考えられないけれど22年前のその病院では
最初は混乱していて記憶があまりありませんでしたが、少しずつ周りが見えるようになった頃は、病院内で虚ろな目をした人たちと同じ部屋にいました。
垂れ流しで歩いている人や、「家に帰りたいよー!」と泣き叫ぶ人や薬で寝たきりのまだ、10代と思われる女の子もいました。
寝たきりの女の子に対しては掃除のおばさんが「この子はいつも寝ている。お父さんやお母さんがどれだけ苦労して病院代を払っているのかわからんのか!」と言いながら掃除していたのを覚えています。
珈琲が飲める時間も15時と決まっていたように思います。
隔離に入れられると怖いよと言った人もいて、 隔離室から出てもじょくそうができるそうです。それは、手足を縛られて身動きが出来ず尾てい骨の辺りが壊死するのか穴が開いているように見えました。その手当を何人もの人がされていました。ここは私のいる場所じゃないとここから出せ!と無理やり退院しました。
状態が悪いままで退院しましたので、自宅に帰るとストーカーの「一生つきまとってやる。こいつあほやから」という幻聴が聴こえたり、笑い声も幻聴で聴こえた。連れ去られた時と同じ色の黒い車が怖く黒い車を見るとその場でヘナヘナとなり、立てなくなりました。生きているのが辛く何度も未遂を繰り返した頃初めての入院とは違う病院と巡り合うことになった。この病院はスタッフ全員が優しく入院すると癒やされた。 入院中は落ち着くのですが、退院すると数日で外が怖い。しかし生きていかなければならないので食べ物も近くのコンビニにふらふらと歩いていき、信号も目に入らず車にひかれそうになったりもしました。
ある時、あるSNSで精神障害者のコミュニティで地域活動支援センターのことを知り一大決心をし、電話をかけて場所を聴き、向かいました。でも、知らない場所に向かうことで不安になり「怖いよー!助けて!お腹痛い!ぎやー!」と携帯で地域活動支援センターに電話をし、励まされながらたどり着きました。 はじめて行ったその場所で私と同じ精神を病んだ人たちが穏やかにそこにいました。優しく迎え入れてくれた職員さんたちを見てここに通えば良くなるようなそんな気がして無理してでも通うようになりました。 そこでは、色々なプログラムがあり、それに参加できる時は参加し、疲れている時はセンターの中の休憩室の布団で休ませて頂きました。
ソフトドリンクが100円で飲めること、麦茶が飲み放題。カップラーメンがあり、レトルトだけれどカレーが150円だったのも魅力的でした。 レクリエーションには、お祭りやクリスマス会等もあり、特に夏にあったいちばん大きなお祭りが印象にあります。それは地域の人たちやボランティア等も参加し、たこ焼きや、焼きそば、フランクフルト等の屋台も出てそんな夏祭りの日は夜まで参加出来てビール(当時今はない)まで買う事が出来、飲み、語らい、笑い合いました。最後は打ち上げ花火を見て終わるのが楽しかった。
ピアサポーターとの出逢い
地域活動支援センターには毎日通うようになり、日に日に癒やされていった私は、地域活動支援センターのメンバーと個人的にお茶を飲んだりできるようになったり、皆との会話の中でB型作業所の情報を聴き、行けるようになるまで回復しました。
対人恐怖症だった私は、ここでまた人と接することができるようになったのです。後に助けられるピアサポーターとの出逢いもありました。この期間は私には大切な自分に必要なことだったのです。
7年前のその頃地域活動支援センターでは癒やされても
他の環境が良くなく悩んでいた私に友人のピアサポーターからピアサポーターにならないかと言われ、なる決心をした。
決心と言っても、どんなことをするのかな…とついて行った感じです
地域活動支援センターで、地域生活報告会と言って精神病院に出向いて退院後の自分自身の生活を入院患者さんに話すと言うことを数回していたのでその延長線上かなとも思ったりしていました。 ピアサポーターになるには知識が必要だったので様々な研修を受けました。 皆さん活気に溢れキラキラと輝いていて、こんな世界があるんだと感動した。
ピアサポーターの活動
最初は慣れなかったが、ピアサポーターの仲間と共有しあい、必死でついて行った。正直しんどい時もありましたが患者さんに接する時に笑顔で「こんにちは」と言います。笑顔で接すると笑顔で返して貰える。そうすると嬉しくて楽しくて患者さんと別れる頃にはしんどかった自分を忘れていました。
なんだろうこの充実感……
その中で地域移行、定着支援をすることになりました。
最初は地域定着支援から
地域定着支援は、精神病院から退院した患者さんが地域で不安なく、安心安全で地域に馴染むようになる為の支援でした。主に月1回部屋を訪問しました。 困りごとはないか、私にできる事はないかと初めての支援で戸惑いながらも取り組みました。
この方は、病院で癒やされたがまだ完全に回復されていない様子だったのでたくさんの問題が次から次にありましたが関係性は良好で支援者や主治医に話せない内容でもこっそりと教えてくれたり、たまには女子会もしました。
その後この患者さんの事例報告をする事になり、たくさんの問題があるが、この方は、そうしたいわけじゃなく、病気がそうさせてしまうんです!と泣きながら発表したのを今でも覚えています。
あれから約6年
何人もの患者さんの地域移行、定着支援をしました。
支援の途中で支援を打ち切りになった方もいます。元気に退院され落ち着いた方もいます。地域移行支援の途中で打ち切りになった例は、病院のカンファレンスで病棟看護師に「○○さんがこれから自由を謳歌することをあなたは邪魔をするのですか?」と詰め寄った事もありました。
ピアサポーターとして、患者さんが地域で安心安全に暮らせるように退院に向けて部屋探しをしたり、日中活動である作業所の体験、地域活動支援センターの体験をしたりを一緒にするのですが、入院していると外はしんどいんだと思います。病院に帰って疲れたとこぼすこともあるだろうと思います。その時に「かわいそう、ずっと入院していたらいいやん」と言っていたからです。
家族は、「そこまで言わなくても。○○もこれからも看護師さんにお世話になるのやから」と言っていました。
本人はその中でいずれは退院するけど、今は…と、病院にいることを選びました。
最後に私は、もし、退院したいと決心がついたら次はどのピアサポーターになるかわかりませんがどのピアサポーターも全力でサポートしますから大丈夫ですよ。と言って終わりました。
グループホーム体験でのこと
この方は、長きに入院している方です。
ひとりで生活は初めての試みだったと思います。2回目のグループホーム体験の時、グループホームに送りの支援はたまたまかありませんでした。支援者がグループホームまで連れて行った2日後の朝急遽診察の為私と支援者とがグループホームに呼ばれました。グループホームに着いて、グループホームの世話人さんが記録書を支援者に渡されました。
その記録書を見せてもらいました。
延々と記録が書かれていました
ひと目記録を見てわかりました、精神薬飲んでいたら朝喉が異様にかわくんですよね。
なぜ、ジュースが飲みたいと言われた後に後でね。と言うの?「喉乾いた?ジュースはないけどお茶飲む?」の一言が言えない?グループホームで働いてるんやろ?グループホームの仕事は精神病患者に携わっているんでしょ?仕事となったらその仕事が円滑にまわるように少し考えたりするはずですよね。私は健常者の時もそうしていました。
この方は、長きの入院で、今、グループホームに体験中でひとりでは右も左もわからないお金もグループホームが預かり、お金を持っていません。お金を下さいと言ったら出してくれるだろうけれど、慣れていない場所なので言葉に出来なかったのかも知れません。
患者さんは、ただひたすら自分が悪いんです。早く診察しなきゃ。もっと頓服薬飲まなきゃ。と言っていました。
何時何分何なにをしたと記録に書くより、大切なことがあるやろ
と支援者に患者さんと病院に向かうバスの中で話した。
診察の待ち時間に患者さんに大丈夫ですかと話しかけ、診察に呼ばれる頃はしりとりをしたりしました。
その中で、「えー!頓服薬いらんやん」と言うと「ほんまや」と笑顔がみられた。
診察では主治医が「調子が悪くなった?頓服薬出しますね。明日のデイケア体験はやめときましょ」
私は、「明日は、初めてのデイケア体験ですけど私は、デイケアの様な地域活動支援センターの日中活動で癒やされ対人恐怖症も治り、人とのコミュニケーションを取り戻しました」
主治医は、グループホームの記録とすまなそうにしている患者さんを見ながら
「体調が悪いから」
日中活動のデイケア体験がないと、グループホームで部屋で日中ひとりでいるようになってしまう。人とのコミュニケーションの場や、癒やされる場がなくなってしまうと考え続けた。
そしてこのことをめげずに話し合いました。
もっと支援者や医療従事者に頭をやわらかく、その人その人に寄り添った状況によれば、喉も乾く、お腹も減るひとりの人間として、接してしていただきたく伝え続けました。
チームを組んでいる支援者は、その気持ちを汲んで下さり言葉を代弁してくれたのもあ
り
主治医とグループホームとの理解をえて
その後、この方は日中活動でクリスマスを皆で祝う事が出来ました。クリスマスケーキのデコレーションをし、美味しく食べたそうです。
人生初であろうクリスマスケーキのデコレーション。やれば出来るとワクワクドキドキしたかな?
これから少しずつ変わろうとしているのかも知れません。
そして退院されて自由に好きな時に好きな事をされている方々もたくさんいます。
ある方は、薬の副作用からか便秘になり、便秘薬を大量に処方され、軟便が続き長期間紙おむつでしたが、地域移行の途中から、他のピアサポーターからの助言で内科で検診を受け適切な量の便秘薬に変わり今では紙おむつが布パンツに変わりました。
グループホームまたは、一人暮らしをしながらB型作業所に通って自分らしい生活を取り戻した方々もいます。
新しい生活はワクワクドキドキしているかな?
自立生活援助
この支援は、1年でワンクール、月に1回を退院された方の安全か、安心か、困った事はないか家にこもりきりではないか、部屋は雑然としていないか等を雑談をしながら必要な資源を一緒に考えたりします。
地域定着支援は半年だけど、少し長い支援です。
これはまだ1年半ほどしか経験していないけれど微力ながらこの方のこれからしたい事を一緒に考え時にはただそばで黙って寄り添う事もあります。
訪問看護さんに入って貰いました。
そして
最近は、看護師資格所得に社会資源の知識もいるらしく、看護大学に呼ばれる事も増えました。私はその時看護師になったら、地域移行をかわいそうと思わなくて、今日はしんどいね、でも明日は頑張ろねと背中を押してあげてくださいとお話をさせて頂いています。 病院が住まいにならないように共に頑張ろうねと。
まだまだ始まったばかりです。
希望とWRAP(元気回復行動プラン)
不思議な体験をした。
WRAPファシリテーター研修での事。
そこには、当事者や、医療従事者、支援者、大学教授エトセトラエトセトラ
男も女も健常者も当事者も皆で共有し、分かち合い同じ目線で語り合い全国に発信し全国各地からその土地の食べ物が送られてき、お腹も満たされ、誰もがニコニコと生き生きと語り合い学び、同じ目線で誰かを上にみたり、下に見たりなどなく健全でやさしい希望に満ちた体験だった。
当事者が創り上げたWRAP(元気回復行動プラン)それを差別や偏見なく、皆で感じ、学び伝えようとする事に感動し、希望を抱いた。
安心で安全やさしい気持ち上下関係なく、満ち足りた関係性
発言するもしないも自由
誰かが発言したら静かに耳を傾ける
そしてその発言について語り合う
自由で希望に満ち溢れた場所
望んでいたことがその場にあった。
この感覚は何?
自立
私は、混乱していた、ふらふらと歩きながらわけのわからなかったあの頃を思い出して今混乱している、将来を不安に思っている患者さんが安心安全で自分の意志でひとりの人間として生きていけるお手伝いをさせて頂きたいと思います。
自分自身が生きてきた、仕事をしてきた、結婚した、子供に恵まれた、離婚を経験した。子育てをした。精神しょうがい者になったそこから少しずつリカバリーして来たその自分の人生すべてをかけて取り組んで行こうと思います。
退院に自信がない、地域で暮らせるの?仕事は?みなさん不安に思っています。
勝手な思惑や理解だけで動くのではなく、医療と家族と自分との折り合いをつけながら人間らしい自分が主体の生活をして欲しいと願っています。
そして自由になるのには勇気がいる。
自由になれば不安もあれば、ワクワクドキドキもある。
そのとき
少しでも勇気を持てるようにこれからも一緒に寄り添い歩んで行きたいと思います。
まだまだ私自身未熟者ですからこれからもリカバリーは毎日続いて行くことでしょう。ワクワクドキドキしながら。
その他の障害・病気