「ご祝儀には旧札がマナー」は近視眼的に過ぎる
暮らしPhoto by Kenny Eliason on Unsplash
7月から流通を始めた新紙幣も、年末までくれば手元に収まった人が増えている頃合いかと思います。その中で、「渋沢栄一はかつて女性関係にだらしなかった逸話がある。結婚式のご祝儀には不適切だとマナー講師らが言い出すかもしれない」という“珍説”が囁かれていました。
マナー講師の中には、講演のネタを絶やさないためにデマまで吹聴する者がおり、それを想定しての珍説でした。過去には、徳利の構造を全否定したり緑茶の扱いに口出ししたりして、陶芸家や茶屋らを怒らせたこともありました。しかし、“悪しきマナー講師”がいくら無遠慮とはいえ、旧紙幣がいずれ淘汰されることすら分からない無教養は流石に無いだろうと思ったものです。
ところが、秋のブライダルシーズンである10月に、珍説と全く同じ文脈で「ご祝儀には旧紙幣を用いるのがマナー」とテレビで取り上げられ“再燃”しました。なんと現実に「新紙幣がマナー違反」と思い込んでいる層までいたそうです。ただ、既に各メディアでは「出所不明のデマ」「架空のマナー講師」「本当にこれを言うマナー講師はいない」と片付けられており、実際にマナー講師の肩書を持つ人間からも嘘マナーとして一蹴されています。
これは大半の大人が紙幣の移り変わりを体験していることも大きいでしょう。旧紙幣はいずれ淘汰されると学習しているからこそ、紙幣の流通に逆行するような妄言にも耳を貸さずにいられます。逆に「渋沢栄一は最終的に子沢山だったから、子孫繁栄として縁起がいい」と擁護する意見もありましたが、いずれ紙幣の流通から福沢諭吉が淘汰されることを考慮していない点は一緒ですね。
ただ、ご祝儀の紙幣や額というのは昔から荒れやすい分野で、「刷られたばかりの新札を出せ」だの「3万出すのがマナー」だの色々と言われています。飲みの席やお歳暮などにも言えることですが、コミュニケーションが絡むからにはマナーの有無や真偽で騒ぎだすのも人の本能かもしれません。
マナーの本質は気遣いと円滑化にあり、決してイビリやマウントの材料ではありません。新旧の紙幣が共存している間でしか成り立たない話を偉そうに説く、極めて近視眼的な“人格”。これがあたかも実在の人物であるかのように共有されるのは、マナーをマウンティングの為のおもちゃとしか見ていない者の存在を示唆するムーブメントです。
それでも“悪しきマナー講師”の虚像に惑わされるまま、結果的にデマを拡散してしまったのは感心出来ません。新紙幣云々の話は「なりきり」が発端だったという話もあります。「悪人の真似といって人を殺したら、本当の悪人だ」と徒然草にも書いてあったではありませんか。社会通念や公序良俗の上で望ましくない“人格”を風刺するにしても、なりきりやモノマネで本当に騒がせてしまっては、自分がその“人格”と同類に思われても自己責任としか言いようがないです。