僕が双極性障害にいたるまで~自身の過去の振り返り(前編)

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出典:Photo by Eric Ward on Unsplash

現在、僕は「双極性障害II型」と診断されています。その前に「うつ」と「適応障害」の診断も受けていました。どのタイミングで双極性障害を発症したのか、正直わかりません。ですが、僕が「うつ 」や「適応障害」と診断される、様々な要因がありました。もしかしたら遺伝の可能性もあります。母いわく、祖父が双極性障害に近い状態だったそうです。

自身の過去を振り返りながら「双極性障害II型」と診断されるまでの経緯を整理しつつ紹介します。これを読むことで、何かの参考になれば幸いです。

生い立ちから18歳まで

僕は母子家庭の一人っ子として育ちました。母は夜、仕事に行き、僕は1人で家に居ることが多かったです。なので、僕はゲームや映画を観たり、自由に過ごしており、小学生のころから高校生のころまで、自宅で勉強をしてきませんでした。当然のことながら成績は悪かったです。母自身も中卒の身で、勉強をしてこなかったせいか、成績のことはあまり言われませんでした。ですが、母は怒ると怖い人で、いつも顔色を窺いながら、子供時代を過ごしていました。そのせいか、現在の僕は、自分から人に意見を言うのが、苦手です。また、独りで過ごすことが多かったため、人に頼れず、独りで抱え込む傾向がありました。また、言い訳に聞こえるかも知れませんが、僕には、導いてくれる人や、お手本になってくれる大人が身近におらず、どういう大人になりたいか全くわからなかったのです。また、将来の夢や目標もありませんでした。

中学3年生のころ、僕は学校に行くのが億劫になり、よく遅刻や欠席をしていました。理由としては「勉強が嫌い」「独りになるのが怖くて、上辺だけの関係を築いてるクラスメイト達が嫌い」「校則というルールに縛られている学校そのものが嫌い」などです。幸いにも、仲の良い友達は何人かいました。ほとんどが、僕と同じ価値観を持っていました。

そして、進学の時期になって僕は高校に行かない選択をしましたが、母に反対され、仕方なく行くことに。入学したい高校がなく、とりあえず仲の良い友達が行く工業高校を選び入学しました。

高校に入学し、僕には新しい友達ができました。現在も仲良くしているぐらいです。ですが高校生活事態は合いませんでした。なにより、工業系の授業が僕にとって苦痛でした。そして体育会系の校風も苦痛でした。次第に、また学校に行くのが億劫になり、遅刻を繰り返すように。ゲームセンターでサボる日もありました。

遅刻を繰り返すと、生活指導の先生に怒られ、ペナルティとして、早朝登校を課せられましたが、普段遅刻する人間が出来るはずもなく、また怒られ、さらに学校に行くのが億劫になりました。僕は耐え切れず学校をサボり、単位も足らず進学が出来なったので2年の時に退学しました。この時、他の高校に編入する選択もありましたが、そうしませんでした。

退学後、僕は母に家を追い出され、高校生のころからバイトをしていた、スーパーで働きながら、一人暮らしを始めました。バイト仲間や友人と遊んだり、音楽ライブや、イベントなどに行き、それなりに充実した生活送れていました。SNSで知り合った人達とバンド活動なども始めましたが、正直生活は苦しかったです。僕はギターをやっていたのですが、あまり上手くなく、バンドメンバーの技術に追いつけず悩んでいました。やがてバンドは自然と解散し、僕はこれから何をすればいいのか、わからなくなりました。 そして、将来の不安に襲われ、自分に苛立ちも感じました。色々考えた結果、母と同じ中卒の身なるのは嫌だと思い、高卒を取ろうと決意しました。母にもう一度、高校に行くことを相談し、単位制の高校に行くことになりました。それと同時に、母とまた暮らすことになったのです。

黒歴史

単位制の高校に編入し、このとき僕は19歳でした。僕と同じく、高校を中退した友人も編入することになり、最初は安心して通えました。単位制だったので学年は無く、必要な単位と在籍年数があれば、卒業できる学校です。僕の場合、前の学校に2年在籍しており、単位もいくつかあったので、真面目に通えば1年半で卒業できる予定でした。ですが、僕は卒業するのに3年かかりました。

原因は軽音部に入部したことです。この軽音部はいわゆる、はみ出し者の集まりでした。部員のほとんどが授業をサボり、学校の非常階段でたむろしていました。中にはたばこを吸っている人もいました。僕もその1人です。正直、みんなでワイワイ過ごして楽しかったです。多い時は、軽音部以外の人達も居て、10人以上でたむろしたり、放課後に飲み会などもしていました。また、入部してすぐに彼女も出来ました。彼女は僕より1年ほど早くこの学校に編入していました。頭の良い人で、進学校に通っていましたが、その学校で酷い目に遭い退学したようです。彼女も軽音部の部員で、みんなのアイドル的存在でした。後から知ったのですが、途中から入ってきた僕が、彼女と付き合うのを他の部員から、良く思われていなかったようです。そんなことも知らず、僕はみんなとワイワイ過ごして単位を取り損ねていました。

そんな学校生活を送りながら、恋愛に夢中になっていたのです。ただ、彼女は少し精神を病んでいる人で、周りから陰で、メンヘラ呼ばわりされてました。そんな彼女は僕に依存するようになり、それに応えるように、僕も彼女に依存するようになりました。そして僕は彼女のために卒業して就職をし、真面目に働こうと思ったのですが、しかし彼女には「私のために頑張らないで」と言われました。

それでも相変わらず、軽音部のみんなとつるんでいました。すると、だんだんみんなの本性が見えてきたのです。ことあるごとに、グループ内の誰かの陰口や、嘘か本当かわからない悪い噂などが、絶えませんでした。多分、僕のことも何かしら言われていたと思います。そして、あるとき僕は、彼女の悪い噂を軽音部のU君に吹き込まれたのです。「あの子は前にA君と付き合ていた」や「B君と関係を持ってた」など。正直、U君は、よく嘘をつく人だったので、あまり鵜呑みにしていませんでした。それでも少し不安になり、他の人に「U君にこんなこと言われた」と相談しました。すると「確かにA君とは付き合っていた」「B君は噂にはなってる」と言われました。でも、どれも過去の事なので気にする必要はないのですが、彼女に依存していた僕は、凄く嫌な気分になっていました。そして僕は、彼女本人に尋ねました。すると彼女は「どれも嘘、U君は嘘つきだから真に受けないで」と言われました。

とりあえず僕は彼女を信じることにしましたが、相変わらず噂を耳にしたり、嘘つき呼ばわりしている彼女がU君と、楽しそうにつるんでいるのを見て、誰を信じたらいいのか、わからなくなってしまいました。そして不安になり、彼女に「もう軽音部のみんなと関わるの止めて欲しい」と言い喧嘩になり、「重い」「しんどい」と言われ、振られました。別れるのと同時に彼女は卒業しました。

僕はまだ卒業できず一人取り残された状態でした。振られて凄く悲しかったのと同時に、裏切られた気持ちになり、彼女に対して怒りもこみあげ、酷いことを言ってしまったのを、今でも覚えています。そして、その罪悪感から自分で、自分の腕にタバコの火を押し付けました。初めての自傷行為でした。僕はこの時点で、人間不信になっていたと思います。

こうして、編入してから1年が経ち、2年目は、仲の良い友達が卒業や不登校、退学などでいなくなりました。そして僕は彼女のために卒業して就職しようと思っていたので、振られたことにより、無気力になっていました。(「私のために頑張らないで」とはこういう事だったのかと、今では思います)学校も休みがちで、あっという間に1年経ち、3年目になりました。

僕はこのころ、学校の近くのカラオケ店で、アルバイトを始めました。学校終わりにバイトに行く生活を順調に進め、必要な単位も残り僅かで、出席する授業も少なくなった時に、バイトの時間帯を深夜に変えました。深夜の0時~朝の6時までバイトをし、一度帰ってから学校に行き、午前中の授業だけ受けてました。そして、帰って夜まで寝て、またバイトに行く生活を、数ヶ月続けました。無事に卒業することが出来ましたが、この生活のせいで不眠症に悩まされるようになります。

うつと診断されるまで

高校卒業後もしばらく、深夜のバイトを続け、バンドも再び始めました。僕以外のメンバーが他府県だったので、電車で片道1半時間以上かけて、スタジオ練習や、ライブなどを行っていました。このころも不眠症が続いており、一睡も出来ない状態でライブに挑むことがありました。

僕は別に音楽で食っていきたいとかは、全く思っていなく、自分が楽しめたら良いやと思ってバンドをしていました。ですが、他のメンバーは売れる事を意識しており、最初から方向性が合っていませんでした。ただ、僕はサポートメンバーとして加入したので、そこまで気にする必要はなかったのですが、どこかで疎外感を感じていました。さらに、バンド活動は僕だけ、遠征みたいになっていて、かなりストレスでした。

あるライブの日、楽屋で他のバンドたちとワイワイしている中、僕は疎外感を感じ、苦痛になり、メンバーに何も言わず帰ったこともありました。最終的には、正式メンバーとして迎え入れると言われたのですが、方向性が違うし、何より遠征がきつかったので断りました。

バンドを辞めた後、こんどは深夜のバイト先で、店長に社員ならないかと言われました。僕は社員の人達が、全員辛そうに仕事をしているように感じていたので、断りました。そして僕は、このままここで働いてても仕方ないな、と思い辞めました。

その後、相変わらず自分が何をしたいのかわからず、道に迷っていました。それでも、仕事をしないといけなかったので、近くの雑貨店でバイトをすることにしました。髪型や服装が自由で、自分の好きな商品を取り扱えることに、魅力を感じ、働きました。最初は楽しかったのですが、スタッフが女性ばかりで、アニメ好きが多く、話が合わずコミュニケーションに困っていました。昼の仕事になり、不眠症も治まっていましたが、だんだんとバイトがつまらなく感じ、日々の生活もつまらなく感じ、憂鬱になっていました。

そしてまた不眠症に悩まされ耐え切れず、ここで初めて心療内科へ受診しました。最初は睡眠薬だけ貰っていましたが、抗うつ剤も貰うようになりました。この時に初めて「うつ」と診断されました。服薬し始めてから、かなり楽になりましたが、相変わらずバイトはつまらなく、憂鬱でした。そんな時、友人が「仕事を辞めようか悩んでいる」と言ってきたので、「僕のバイト先で働かないか」と誘い、店長に相談し、面接をセッティングしてもらいました。僕はこれでやっとバイトが楽しくなると思い、友人が来るのを楽しみにしていました。しかし、友人は面接を受けたものの「やっぱり今の仕事を続ける」と言い断りました。僕は友人に対して怒り、こんな些細なことで縁を切ってしまいました。この友人は小学生からの付き合いで、親友と呼べる存在でした。今思えば、この時すでに、双極性障害で「躁」の状態だったのかもしれません。そしてバイトも辞めて、この時期から、腕を切る自傷行為が始まりました。

後編に続く

ここまでで、様々なストレス要因があったと思います。後編では前編のストレスを抱えたまま、新たなストレス環境に置かれ、僕がどのようにして今にいたるか、紹介したいと思います。

▶次の記事:僕が双極性障害にいたるまで~自身の過去の振り返り(後編)

セブ

セブ

映画と海外ドラマとROCKと猫を愛する28歳の男です。
双極性障害Ⅱ型で就労移行支援事業所に通所しております。

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