「障害者」と「健常者」~他からの「レッテル」としての障害
その他の障害・病気こんにちは、ジョンとSです。私には「広汎性発達障害」と「性同一性障害」の診断名があります。診断を受けたことで当初は安心しました。しかし現在は、正直、診断名はどうでもいいと感じています。なぜなら、広汎性発達障害は、現在の主治医は「あなたには当てはまりません。あなたを何らかの障害の枠に当てはめなければいけなくて無理くりラベリングされたのです。」と断言されていますし、性同一性障害も、診断当時は障害とされていましたが、現在のWHO(世界保健機関)の基準では、精神疾患から除外されています。いま思うのは「その人が障害者か健常者かということは、本人の自覚だけではなく、他者の視点からの場合もありうる」ということです。
私の「広汎性発達障害」
私が発達障害と診断されたのは、退職後です。この時に障害者手帳ももらいました。退職した理由は、後述の性別の問題でしたが、当時の主治医が私の今後の生活を心配なさって障害年金を受給できるように配慮してくださったと、今は感じています。とはいえ、ある程度の診断基準を満たしている必要もあるため、私の特性に発達障害に当てはまる部分が多くあった事実も否定できません。いま把握している自身の状態は、発達障害というよりギフテッドという、世界的にも障害には分類されていない概念に近い、といったところです。ちなみに、発達障害とギフテッドの両方の特性を持つケースを「二重に特殊な(2E:Twice Exceptional)」といい、日本での認知度はギフテッドと同様にかなり低いですが、私がこれにあたる可能性は十分に考えられます。ギフテッドの定義は国によって異なりますが、一般的には「ある特定分野において、他の同年代の人よりも顕著に高い潜在能力を持っている人」で、ここだけをみると、困りごととは無縁なようにとらえられがちです。しかし実際は、感覚が敏感すぎてささいなことで傷ついたり、興味・関心が同年代の人と異なっていたり、ものの見え方が違っていたりするので、周囲との調和を重んじる日本では、学生であれ社会人であれ、円滑な日常生活が送りづらかったりします。実体験としては、小学生の時に同級生がアニメやゲームの話で盛り上がっている場に入ろうとせず海外の作家の推理小説を読んでいたり、現在のつながりでは、年齢層はさまざまですが、ある種、悟りを開いている雰囲気の方が多かったりします。ギフテッドの視点からみると、私は発達障害ではありません。
私の「性同一性障害」
プロフィールのとおり、働いている時にこの診断を受けました。初めて自分の性別に違和感を感じたのは、幼稚園児だった時のプール着替え中でした。男女一緒に着替えていましたが、仲良しの女の子たちと私の身体が異なっていたことです。その後、小学校の黒のランドセルや中学校の学ランなど、年齢を重ねるたびに男女を区別する場面が多くなってきて、次第に、生きづらさを感じるようになりました。しかし、当時の日本には性同一性障害という言葉は普及していなくて、この言葉と私が初めて出会ったのも「差別と社会」という大学の講義でした。ここから、性同一性障害と自身との関連を調べました。調べるほど、自分の特性との共通点がたくさんあり、当事者団体へ参加したことで、より深く、自分をみつめるようになりました。自分の特性について理解を深めた一方、周りとのギャップにとても困惑しました。その困惑は今でも続いています。現状の日本ではこの先50年100年単位で、性別の問題は解消されないと予測されます。例えばアメリカと比べて、性同一性障害は常に30年くらい、日本は遅れています。今後もその溝は埋まらないでしょう。そうした国で当事者が生活していく中で大切なのは、「人がどうであれ、自分は自分」を人一倍強く持つことです。容易ではないですが、自分で自分を克服できたら、生きるのがとてもラクになります。性別の問題を問題と感じなくなった時点で、私は性同一性「障害」ではありません。
まとめ
このように、私の場合は2つの診断名があります。しかし、自身のとらえかたひとつで、障害が障害ではなくなるケースもあります。一人ひとり、かかえるものは違いますが、角度を変えて自己の特性と向き合うことで、「障害」と思っていたことが、じつは、他からの「レッテル」にすぎない、と思える可能性に、気づいていただけると幸いです。
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