「邪魔だと思う人は手を挙げなさい」~支援学級生への暴言と交流学級の落とし穴
その他の障害・病気コロナ禍へおっかなびっくりながらも授業を再開し始めた学校現場ですが、だからといって指導上の問題行動が看過されるわけではありません。沖縄のとある小学校で、いじめの誘発にもなりかねない危険行動が明らかになりました。
クラス担任の女性教員(以下、教諭X)が、交流授業(注)を受けていた支援学級の児童に腹を立て「うるさい・邪魔だと思う人は手を上げなさい」と同意を求めだしたのです。おまけに、手を上げなかった児童に対し「お前も支援学級に入れ!」と手首を引っ掴みました。恐怖を感じて4日間休んだ児童も出たそうです。
ニュースを読んでいるだけでも、教室内の情景が鮮明にイメージできます。そのぐらい、教師の中には些細なトラブルを授業崩壊と思い込んで極端な行動をとる者が多いのです。
(注)支援学級の生徒・児童に通常学級の授業を受けさせることを交流学級といいます。科目は総合や道徳(小学校なら英語)など、その学年の学力があまり問われないものに限定されます。
暴君にもなれない暴君
「担任も追い込まれていた」「そもそも教師自体が重労働」という擁護もありそうですが、たとえ過労と孤独が当たり前であろうとも「越えてはいけないライン」を弁えねばなりません。教諭Xを評するならば、「暴君にもなれない暴君」でしょう。これは福岡のいじめ自殺で原因を作った教師が吐いた「偽善者にもなれない偽善者」のもじりです。不適切教員には不適切教員の言葉を贈ります。
教諭Xはかねてより支援の児童を疎んじていたようで、別の日には腕を掴んで教室から放り出そうとしていたとクラスメイトから明かされています。そして今回、「邪魔だと思う人は手を上げな」と教師の立場から児童へ同意を求めだしました。頑として上げない児童には「お前も支援教室に入れ!」と手首を引っ掴み、まるで恐怖政治です。日頃支援教室をどう思っているかという価値観まで見え隠れしています。
しかし児童たちは教諭Xの思惑通りには動きませんでした。一部の児童は親に「担任が支援の子へきつく当たる」と話しており、それをきっかけに教諭Xの行いが明るみになったのです。
教諭Xは「指導の一環であり、悪意を持ってやったわけではない」と弁明していますが、悪意がないということはすなわち「授業を円滑に進めるのが正義!それを邪魔する支援ガ〇ジを追い出すのは指導の一環!」と純粋な指導方針として考えていた節があるともとれます。
「支援学級の邪魔者は排除。味方する奴も同罪」という指導方針で教壇に立ち続けた教諭Xは、現在体調不良を訴え休職中とのことです。
“困らせる”ではなく“困っている”
支援学級(というか発達障害)絡みでよく言われるのが、「困らせる子ではなく、何か困っている子という観点を持ってほしい」という言説です。授業中に騒ぐ子は大抵、騒ぐ理由というものがあります。講義中に騒ぐ大学生ですら、「大きい教室で友達同士座っているから」という理由を持っています。さすがに大学生にもなったら自制すべきですが。
大学生の私語と違い、支援学級の児童が叫んだり飛び出したりするのは当人にとってやむにやまれぬ事情があるものです。障害ゆえか一歩踏み込んだ露骨な行動(叫んだり飛び出したり)に出る訳ですが、表層的な部分しか見ていなければ「困らせる子」としてしか映りません。
「困っている子」と認識することから始まり、その困りごとを特定したり和らげたりするために支援学級の担任や保護者と一緒に考えていかねばなりません。教諭Xのような行いまでいかずとも、「困らせる子」としか見ていないようではスタートラインにすら立てていないのです。
「困らせる子」と「困っている子」のどちらで解釈しているかは、そのまま児童・生徒を日頃どう見ているかのバロメーターとなります。原因を考えず「困らせる子」としか見ない教師は、他の児童・生徒のことも出荷する家畜程度にしか見ていません。
交流学級の落とし穴
支援学級の生徒・児童を通常学級の授業に参加させる「交流学級」は、低学年のうちから実施すれば「障害を持つ子が当たり前に存在する」という実感が育まれます。実際に、「小さい頃から一緒だったので、障害に対する偏見はない」と豪語する人も結構います。
しかし、交流学級には見えない落とし穴があります。支援学級の児童と積極的に関わる子は、クラスのごく一部に過ぎません。低学年のうちはまだマシですが、学年が上がるにつれて関わる子が固定化されていき「~ちゃん係」が自然と出来上がってしまいます。そうなると同じクラスでも障害者への理解に格差が生まれる訳です。
今回の事件はクラスメイトが親へ「支援の子にきつい先生がいる」と言ったことで明らかになっており、これを「児童の人権意識が高まっている」と喜ぶ声があります。しかし、該当クラスの全員でないどころか、クラスのごく数人であったかもしれません。恐怖して休んだ児童も、もしかしたら支援学級に対して偏見か何か持っていたからこそ怯えたのかもしれません。
中学にもなれば支援学級の生徒は「いかに押し付けるか」でしかありません。中学になって初めて交流学級では遅すぎるくらいです。酷い場合はいじめの手段として支援学級の生徒と同じ班に押し込めるケースもあります。(実際に体験しました)
それに、大抵の人は障害を持つ人との記憶が中学以前で止まっていると思います。それもそのはず、障害者が社会に出てこない以上、職場などで日常的に見かけることなどないからです。大人になってから障害者との共生を考えるには、また違った方法が必要となります。
交流学級は軽い気持ちで実施できるものではありません。最悪の場合、支援学級の児童・生徒がいじめの道具にされてしまいます。支援学級生がいじめられるのではなく、いじめの手段として支援学級生が利用されるのです。これでは障害者への憎悪も醸成されますし、支援学級生もいじめ加害者となってしまい、誰も成長しません。
「違う子捨て場」にしてはならない
直近のデータでは、少子化に伴い入学児童数が年々減っているにもかかわらず支援学級の数は増えているそうです。そこで思い浮かぶのは、支援学級が「違う子捨て場」になっているのではないかという疑念です。少しでも手のかかる児童がいればすぐ支援学級へ放り込もうとする、「我慢の出来ない教師」のわがままが通りやすくなっているのではないでしょうか。
「違う子」「変わった子」への不寛容は依然改善されたと言えず、寧ろ「普通」の基準が昔より跳ね上がっています。生産性や効率化への渇望が教育現場にまで浸透しているといっても過言ではありません。生産性に固執していると、より大切なものを失い取り返しのつかないことになります。これは脅しでも狂言でもありません。
Twitterで流れてきた労災の話です。「工業分野には、掛けた本人しか外せない操作禁止札(命札)がある。それを勝手に外してプレス機を動かした奴がいた。点検中の作業員がおり、もちろん即死した」プレス機が点検中ということを考慮すらせず、生産性のために無理矢理動かした作業員によって陰惨な労災が起こったのです。
いま人が入って点検しているであろうプレス機を「生産性」のために動かすような輩が世の中にはゴロゴロ居ます。プレス機ですらこの態度をとりかねない人間が、どうして不可視の障害への合理的配慮をやれるのでしょうか。
障害者は嫌だ配慮は嫌だと言うのであれば、青天井で上がっている「普通」「定型」「健常」の基準を下げる努力ぐらいして欲しいものです。
参考サイト
「邪魔だと思う人は手を挙げて」支援学級の子に不適切発言 先生怖いと休む子も
https://www.okinawatimes.co.jp
命札「点検中 操作禁止」札 217|日本緑十字社
https://jp.misumi-ec.com
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