「怒り」と「悪意」そしてその扱い方〜不完全さを抱えて生きていくということ
暮らし
出典:Photo by Eyasu Etsub on Unsplash
前回の投稿で私は、必要なのは不完全さを抱えたまま考え続けることだと書きました。
潔癖さを求めホワイト化される社会から、見えない場所へと追いやられる「不完全な感情たち」。
そうした感情たちをどうしたらいいのか?
どう向き合ってどう扱って行けばいいのか?
善悪よりも先にある「感情」
例えば「怒り」。
怒りは、人間のとても原始的な感情です。
それは善悪を判断するよりも前に、殴られたときに痛みを感じるのと同じように、反射的に立ち上がるものです。
ただ、この怒りというシンプルな感情が、他者へと向けられる瞬間があります。
「罪」そのものへの怒りが、「罪を犯した人間」へと矛先を移すとき。
その瞬間、怒りは対象を持つ感情へと変質し、悪意の形をとり始めます。
私の心の中にあるもの
実は私の中には、もうかなり長い間、消えていない悪意があります。
それは、猫を虐待し殺した犯人に向けたものです。
事件を知ってから、もう何年も経ちました。
それでも私は、まだ犯人を許せていません。
この事件をニュースで知ったとき、私の中で怒りは一気に燃え上がりました。
それは、反射的に立ち上がる炎でした。
その炎は強く、瞬く間に犯人へと移り、一層激しく燃え続けたのでした。
頭の中で、私は何度もその人間を罰しました。
言葉にすれば、それはとても残酷な想像です。
時間が経ち、激しい炎は消えました。
けれど、すべてが消えたわけではありません。
心の奥に、石炭のようなものが残ったままです。
それはもう燃えてはいないけれど、触れればいつでも熱を取り戻すような、黒い塊。
それが、私の中にある『明確な悪意』です。
でも、私はその石炭を消そうとは思いません。
それは、「私は悪意を抱くことができる人間であり、他者に残酷な想像を向けてしまう存在である」
という、私の不完全さの証であり、同時に戒めでもあるからです。
怒りは自然な感情だけど…
動物虐待や児童虐待のような、いわゆる「絶対悪」と呼べる行為に強い怒りを覚えるのは自然なことだと思います。
けれどその怒りは、多くの場合「行為そのもの」ではなく「それを行った人間」へと向かいます。
罪そのものを憎みたい。
そう思っても抽象的なものに怒りを向け続けることは、私たち人間にはあまりにも難しい。
だから怒りは、顔を持ち名前を持つ対象を探して、誰かに結びついてしまう。その時、悪意という形をとってしまうのかもしれません。
ここから先は、怒りを「どう消すか」の話ではありません。
私にとってそれは、もう不可能だと分かっているからです。
怒りは、とても個人的で衝動的な感情です。
ただ、ある瞬間に勝手に立ち上がってしまう。
私の中で立ち上がるこの「怒り」という感情をどう扱うか?
私は、自分の怒りに「正当性」を与えないことにしました。
自分の怒りは、私の個人的な感情の衝動であり、そこには正しさや社会性などの正当性は関係ないからです。
どれほど許されざる行為に向けられたものでも、絶対悪と呼ばれるものに向けられるものでも、そこに正当性を与えてしまえば、それは「正義」に姿を変えてしまうのです。
怒りを他者に向けたときに生まれる悪意すら、正当性を纏えば「純白の正義の剣」になるでしょう。そこには後ろめたさも罪悪感も存在しません。
私はそれが、石炭のような悪意を持つことよりも恐ろしく感じるのです。
だからこそ私は、石炭を「ただの個人的な悪意」として、心の奥に置いておこうと思ったのです。
ただ、私は出来れば心の中に残った石炭を「炭」に変えたいと思っています。
誰かを焼く燃料ではなく、何かを描くことができる、言葉を紡ぐことができる炭に変えていく。
それは赦しではありません。
忘却でもありません。
「昇華」と呼べるほど美しいものでもないでしょう。
ただ、私が選んだ「扱い方」なのです。
オンラインサロン「障害者ドットコム コミュニティ」に参加しませんか?
月々990円(障害のある方は550円)の支援で、障害者ドットコムをサポートしませんか。
詳細はこちら
https://community.camp-fire.jp/projects/view/544022


