作業療法学を学んでいた自分が、対人恐怖症だった話~支援を学ぶ側から支援される側へ
その他の障害・病気出典:Photo by Adam Valstar on Unsplash
対人職である作業療法士。その学校に通っており「対人恐怖症」と判明した私が「支援する側」が「支援される側」に移って感じた違和感など、学校を辞めてから学校を辞めてから学んだことを紹介します。
対人恐怖症?作業療法士?
私は「中等度対人恐怖症(および抑うつ症状)」と診断を受けています。簡単に説明いたしますと「人よりも緊張してしまう病気」です。
症状は様々ですが、私の場合は「複数名の前で発表、発言の際に動悸、腕の震え、考えていたことが抜けてしまう」「新しい環境に慣れるのに時間がかかる」「新しい環境や発表の前日の夜に不安、動悸で眠れなくなる」などの症状があります。
変わって「作業療法士」というのは、簡単に説明すると「日常生活に必要な行為が出来ることを目標に患者へのリハビリを行う医療職」です。身体障害を持つ方のみならず、精神障害や発達障害の方に向けて支援をします。(ちなみに、似て非なるポジションにあたる理学療法士は「四肢や体の動きを促せるようにリハビリを行う医療職」で、主に身体障害を持つ方を中心にリハビリの支援をします)
私はそんな作業療法を学ぶ学生でした。作業療法士になるということは、リハビリを行うということ。つまり「必然的に他人と接しなければならない」ということになります。
「抑うつ症状」が先か「もともとなっていた」のか
私は元々、どちらかと言えば内向的な人間です。小学生のころから、共通の趣味がない限りはなかなか他人と接するタイプではありませんでした。中学生あたりから年を重ねるにつれて、それは顕著になっていったと思います。が、当時は新天地になるたびに、自分から友達を探しに行くという「矛盾」もありました。
そんな私の症状が発覚したのは、1年間留年した時のことです。医療系の大学(あるいは専門学校)では、「実習」があります。これに受からないと進級できません。実習に落ちて1年留年したときは(今、考えてみれば)抑うつの症状が出ていましたが、その時は「ただ落ち込んでいたのだろうな」と次に向けて頑張っていました。次年度、結果は無事進級。しかし高下駄をつけてもらっての進級です。 そして、やっとこさ大学での最終年度。立ちはだかるは「長期実習」です。期間としては合計約4~6ヶ月。学生一番の鬼門で難所で苦行です。
記憶が正しければ、その時は運良く丁度「作業療法士の実習の方針」が改訂・試行された年でした。が、それでもレポートのために睡眠時間は削れ、段々と疲弊します。ギリギリで進級したので、失敗を繰り返し、色々あって、ついに私は音を上げお手上げ。近所の橋から死なない程度に落ちて大怪我してやろうかと本気で思い、未遂しました。「もう無理です実習やめます。先生、面談いつでも受けます」と学校の先生に半泣きでメールしました。
こんな感じで、人生で初めて本気で橋から落ちてやろうと思ったために、休息のため数ヶ月後に心療内科に向かいました。
診断名は最初の通り「中等度対人恐怖症(および抑うつ症状)」です。(後の診断では中等度対人恐怖症となったため、抑うつ症状の記述をカッコで表現しています。抑うつ症状は現在は安定はしています)
「半ば理解している」という「面白さ、不安」の気持ち悪さ
こうして私は診断を受け、お薬を処方してもらった訳ですが、腐っても作業療法の学生だった人間です。作業療法士は精神疾患などにもリハビリ等支援を受けます。つまり、ある程度は「病気について学んでいる」のです。通らなければならない道なのですが、私は精神系を学ぶのはとても嫌いでした。何故なら「カタチのないもの」だからです。
例えば、腕を骨折するとして、「どこまで治ったか、どのように治ったか」を知るためには、その腕の「痛み、腫れ」「肘をどこまで曲げれるか」など、「ある程度は目に見えるもの」です。しかし、精神障害となると、「え?この人、普通の人に見えますけど」という方がいます。つまり、具体的な「カタチ」がなければ分からなかったのです。(そこをちゃんと知る方法もあるのですが「未熟」な私には出来ませんでした)
ということがあって「あぁ、これが抑うつ症状で……これが○○という症状で……これが……」という「実感」が湧きました。しかしそれは知的好奇心をくすぐる「面白さ」でもありましたが、反対に「自分にはその症状が出ている」という「不安」もあって、ゆえに違和感という「気持ち悪さ」が生まれたのです。
「気持ち悪さ」のメリットを活かせ
学生時代の知識と経験(良い物も悪い物も)は、出来ることならば脳ミソから引きずりだして、近所の野良猫のエサにでもしてやりたい、そうすればこの気持ち悪さから逃れられる。ついでに今通っている就労支援所のレクリエーションの意図が、少し推測できてしまい気が萎えることが無くなる。とはつくづく思いますが、そんなことは出来ません。
しかし、この知識があってこそ活かせるのは「自己理解、病気の理解」だと思います。しかし、こんな偉そうなことを言っておきながらですが、全て自己理解できている訳ではありません。知識はあくまで補助輪に過ぎません。
ですがこの補助輪があるかないかでは、理解の初速は違ってくると思います。マウントをとるような言い方になっているとは思ってますが、無知ほど恐ろしい物はありません。これは精神が「カタチ」のないものだと知っている人間だからこそとても思います。
そんな私の課題は「ストレス解消の手段」です。ですが「言うは易く行うは難し」の典型です。多少なりの知識はあっても行動に勝るものは無いといえます。なお、手段を現在模索中です。
最後に、同じように困っている皆さんも、疾患を持つ方のご家族さんも、無理せず公的な支援機関に頼ってください。それから、「医療職を目指しているけど、もう無理だ」と思っているあなた。絶対に無理はしないでください。支援側にも支援は必要です。
中途半端な知識を持って、中途半端になった人間からのお願いです。
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