障害の「社会モデル」と「個人モデル」の違い

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「感動ポルノ(Inspiration Porn)」の造語でお馴染みのステラ・ヤングさんは、過去にスピーチで「私たちが住む周辺社会からもたらされる障害は、己の持つ障害よりも深刻である。」と発言しました。この「障害は健常者前提の社会からもたらされる」という発想を「障害の社会モデル」と呼び、主に社会全体で取り組んでいく人権問題として捉えています。

対となる「障害の個人モデル(医学モデル)」は、「障害は個人の資質によるものだから、それを取り除く努力を自分でしよう!」という発想です。個人の適応力を医学や福祉といった切り口から向上させていく考え方ですが、自己責任論へ直結しやすく問題意識の共有もしづらくなる弱点を持っています。

国際的に社会モデルの考え方が広まっており、日本でも最新の障害者差別解消法に取り入れられているのですが、民間には浸透しているのでしょうか。また、社会モデルに限界はあるのでしょうか。

障害の社会モデル

「障害の社会モデル」とは、「障害者とは社会から障害を課せられるがゆえに障害者である」という考え方です。対して「障害の個人モデル」は「障害者とは本人の持つ障害ゆえに障害者である」という考え方です。

仮に人が課題にぶつかり詰まっているとします。この状況で「人」に「障害」を見出すのが「個人モデル」で、「課題」こそ「障害」とするのが「社会モデル」となります。従来は個人モデルが主流でしたが、国連の障碍者権利条約を2014年に日本も批准してから、段々と社会モデルの知名度もついていきました。

個人モデルは自己責任論へ容易に繋がったり問題意識の共有がしづらくなったりする欠点がありました。そこで責任を社会全体に求めることで、障害者の目線で課題を見つけ対策していけるようになったのです。

とはいえ、個人モデルが時代遅れの不要な思想となった訳ではありません。独力で解決できるようにする訓練やリハビリもある程度は必要で、それでも解決しない時に社会モデルが出てくるわけです。

吃音症を例にすると、言語聴覚士のもとで発話トレーニングを行うのが個人モデルのアプローチで、社会モデルのアプローチは周囲の人が吃音でいじらないよう言いつけるなどの環境整備や合理的配慮が該当します。

社会モデルの広がりと表記論争

社会モデルの主流化によって一番変容したのは「表記論争」です。「害」「がい」「碍」のどれを採用するかという論争で、2000年代から「がい」派が勢力を伸ばしていました。なんでも「害」の字がネガティブといわれ、「碍」が常用漢字にないことが理由だそうです。

ところが、社会モデルの普及から「害」派が盛り返してきました。「がい」派が「本人に配慮」としているのは個人モデルに立脚した弁明です。一方、「障害は社会が課したもの」とする社会モデルに言わせれば、「"障がい"では社会が負う責任を矮小化してしまう」のだそうです。(音声認識ソフトが正しく読み上げないという理由もあります。)

障害者向けアプリなどを開発する株式会社ミライロも、「障害は本人でなく社会に存在する」という立場をとっており、ホームページなどでは「障害」と表記しています。

社会が課した障害は幅広い

社会モデルが「社会が課した障害」として想定しているのは、「スロープがない」とか「点字ブロックがない」といったような設備的なものだけではありません。「受け付けは電話だけ」「アラートは赤色で」などといったルールや不文律、「障害者はかわいそう」「障害者はこうするべき」のような無知や偏見までも"障壁"と見做されます。

「社会が課した障害」とは実に幅広く、ほとんどが悪気なく無意識に生まれて放置されていたものです。「障害者にとって利用しにくいのでは?」と気付けばいいのですが、よほど勘の鋭い人間でなければ隠れた不便さに気付きません。十中八九は「この面がこういう理由で使いにくい」と指摘されて初めて明らかになっています。

身体障害者ですらこの鈍感さなので、知的障害や精神障害ともなれば不便さの根幹すら見つかりません。「分からないから避けよう」「初めからいなかったことにしよう」という逃げの態度をとってしまい、それもまた「社会が課した障害」となります。

例えば、障害者雇用の法定雇用率は半数以上の企業が達成できておりません。この事実ひとつとってみても、「社会が課した障害」は広範かつ深刻で、誰もが知らないうちに加担しているのです。

個人モデルとのバランス

自己責任論への甘えに一石を投じる点でいえば社会モデルは偉大で理想的な思考です。しかし、何でも「社会を障害者に合わせる」とするのはリソース的に考えて無茶であることも否定できません。「障害者を社会に合わせる」個人モデルとの関係は、対立するというよりも寧ろ、良好なバランスを保つべき間柄といえるのではないでしょうか。

「障害者だから配慮しろ!」と一方的に求めるだけではさすがに敬遠されてしまいますし、合理的配慮を完璧に行える個人や団体は存在しません。就労にしても、自分が我慢できることとそうでないことを分けて「配慮事項を絞る」工程がどこかで必須になってきます。あれもこれも配慮して欲しいという態度に受け取られてはシャットアウトされても仕方ないでしょう。

行き過ぎた社会モデルの希求は白眼視されます。同様に、行き過ぎた個人モデルの希求もまた「自己責任」「努力が足りない」に直結するため、あまり褒められたものではありません。互いに追いつかない部分を補い合える絶妙なバランス感覚が結局のところ大事になってくるのではないでしょうか。

参考サイト

障害の社会モデル(共生社会と心のバリアフリー)|公益財団法人 日本ケアフィット共育機構
https://www.carefit.org

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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