感動ポルノの功罪を問う②~24時間テレビは障害者福祉の革命児だった
その他の障害・病気◀前回の記事:感動ポルノの功罪を問う①〜ステラ・ヤングとバリバラの問題提起
前回、「感動ポルノ」の言葉が生まれた話としてステラ・ヤング氏とバリバラを取り上げました。24時間テレビに対する挑発的な企画が大ウケして、一気に言葉が広まったという話をしたと思います。
今でこそバリバラ等でいじられるような、感動の押し売りだったり頑張り一辺倒だったりする24時間テレビですが、実は最初からそういう番組ではなかったようです。初期の24時間テレビはチャリティーとしての趣が非常に強く、厚生大臣(当時)を武道館に招くなどバイタリティと反骨精神にあふれたロックな一面も備えていました。
そして何より、24時間テレビは日本に障害者福祉を根付かせた革命児でもあったのです。今回は、初期の24時間テレビによる偉業を中心に解説しましょう。
障害者福祉の革命児
24時間テレビの源流は「11PM」という番組で行われていた「スウェーデンの福祉」などの企画だったそうです。その企画は年に3回程度の細々としたものでしたが、都築忠彦プロデューサーはその発展企画として「24時間テレビ」を考案しました。1978年、都築プロデューサーの着想から出発した24時間テレビの第1回目が放送されます。
24時間テレビが放送される前は、障害者差別が公然と行われていました。優生保護法もバリバリ現役でしたし、障害者の安楽死を推奨する政治家さえいたほどです。脳性マヒ者団体である「青い芝の会」もレジスタンスとして活動しており、「脳性マヒ児殺害事件」への減刑嘆願には厳しく抗議(※1)しましたし、川崎市のバスが障害者を拒否したと知るや座り込みなどでバスジャックをして28時間も拘束しました。
そうした差別と反差別の抗争が起こっていた時代です。11PMの福祉企画を源流とする24時間テレビの放送は、その反響から「障害者福祉の革命児」となりました。
(※1)脳性マヒの子どもを介護疲れから殺害した母親に対し、情状酌量を求める運動がありました。この運動に対し、青い芝の会は「子殺しでも相手が障害児なら許せというのか!」と更に抗議したという構図です。
チャリティー番組として
1978年、24時間テレビの第1回目が放送となりました。元々、日本テレビ開局25周年記念番組として1度限りの放送を予定されており、スタッフの間では募金総額が1億円程度で終わると予想されていました。
番組内の企画には、募金のチャリティー行進・コメディーやお笑い・音楽ライブ・手塚治虫アニメ・人類の未来予想などがありました。中でも2日目の朝6時から放送された「世界の福祉・日本の福祉」はチャリティー番組らしい真面目な企画でした。番組の最後には11PMの司会でもあった大橋巨泉氏が、当時の福田赳夫政権へ「決して豊かでない人たちが募金してくれたと思います。本来はあなた方がやるべきこと。福祉国家を目指して良い政治をしていただきたい。」と呼びかけました。
24時間テレビの第1回目は、娯楽メディアがテレビしかない時代背景を鑑みても凄まじい反響を呼びました。数百台の電話を構えたものの、放送時間中に繋がっただけでも7万本もの着信があり回線がパンクしたそうです。募金額に至っては機械でのカウントが間に合わず、放送中に分かっただけでも4億円、最終的に12億円ほどが集まりました。ちなみに、PL学園からも甲子園の優勝祝い金710万円が寄付されたそうです。
あらゆる面でスタッフの予想を大いに上回った24時間テレビは、代々木公園にて大喝采の中終わるはずでした。ところが、「この1回で終わらないでほしい。来年もやってほしい。」という声が多く上がり、当時の日テレ社長も「来年もやります!」と応えたことで第2回の制作が決定されました。それから今に至るまで24時間テレビは毎年放送されることとなったのです。
92年に大幅な路線変更
第1回のテーマは「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」という具体的なものでした。募金として集まった12億円の用途は、巡回お風呂カー・電動車椅子・スクールバスに加えカンボジア難民救済に充てられていたのです。これはテーマというより目標ですね。身体障害者への支援は最初から連綿と受け継がれているともとれるでしょう。24時間テレビは障害者福祉に革命をもたらしました。
しかし、マンネリ化による視聴率や募金額の伸び悩みからか24時間テレビは1992年にバラエティー中心への路線変更をします。「サライ」や「チャリティマラソン」はこの年に生まれました。これが再びマンネリ化して、身体障害者のチャレンジが「感動ポルノ」と叩かれる現在に至ります。ネット社会の進んだ今では、「マラソンを応援しようとした高齢者にスタッフが罵声」「オファーを受けた際『特に感動させられる話はない』と断ると、『いや何かある筈だろう』と食い下がられた」「富士山に挑戦する障害者の映像で、父親が帽子を叩き落とす場面が映された」といったよからぬ話も出ており、不要論は広まりつつあります。
路線変更で生き延びようとせず自然消滅していれば今のような酷評は受けなかったかもしれません。ただ1992年の状況だとチャリティー番組を終わらせるには時期尚早だったのではないでしょうか。優生保護法が廃止されたのが1994年であることからも分かるように、障害者福祉は未だ発展途上でした。まだ24時間テレビには存続意義があったのです。
憐憫を誘って生き延びた時代
1970年代は障害者差別と反差別の抗争が起こるほど荒れていました。24時間テレビは、障害者福祉の革命児として社会現象を巻き起こしました。「可哀想な障害者像」を広めることで憐憫を誘い、障害者は仮初めの生存権を得たのです。しかし、今は「可哀想な障害者像」が障害者の可能性を狭める足枷にすらなり得ます。
福祉の革命児だったのは昔の話です。今、「感動ポルノ」の総本山としてやり玉に挙げられている24時間テレビを通し、どのような意見が出ているのか。それを探して第3回の内容と致します。
参考文献
感動ポルノとは[単語記事] ? ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp
タモリとサザンも参加!初期の「24時間テレビ」はこんな内容だった ? 趣味女子を応援するメディア「めるも」
https://news.merumo.ne.jp
24時間テレビが続いた理由 初回の凄まじい盛り上がりと高校生の一言 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com
脳性マヒ者団体「青い芝の会」が主張した、障害者の自己|「青い芝」の戦い|荒井裕樹/九龍ジョー|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu
電話回線はパンク 第1回24時間テレビの舞台裏を製作スタッフが明かす ? ライブドアニュース
http://news.livedoor.com
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