安楽死議論において「滑り坂」は詭弁か

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Photo by Alessio Soggetti on Unsplash

イタリアで安楽死の事例が報告されたというネットニュースに、「日本にも安楽死制度を!!!」と求める反応がぶら下がっていました。以前、京都でALS患者の嘱託殺人事件が問題になった時も、この手の反応が見られており、何かにつけて安楽死制度を通したい意思が窺えます。

その嘱託殺人事件を受けてNHKがある女性に取材をしていました。海外の安楽死事情を追い続けているというフリーライターの児玉真美さんです。自身も重度知的障害の娘を持つ児玉さんは、「滑り坂」となっている海外の安楽死事情を説きました。

「滑り坂」「滑りやすい坂」とは、ある1つを容認すればなし崩し的に対象や定義が広がっていき取り返しのつかないことになるという論法です。割れ窓理論や酒鬼薔薇事件にも通ずる話である一方、1歩踏み込んだ先がどうなるか分からない側面もあり、何もしないための詭弁と切り捨てられることもあります。

オランダの先例

安楽死先進国筆頭のオランダでは、かつて推進派だった医師の一部から「『滑り坂』は起きた」「こんなはずではなかった」という声が出始めています。当初は終末期の患者だけに向けて合法化されたものですが、月日が経つにつれて対象が拡大しているというのです。

オランダの議会では2016年と2020年に相次いで、75歳以上の高齢者全員に安楽死を許可する内容の法案が提出されました。既に安楽死の基準は公的にも広がろうとしており、認知症の人や精神・知的・発達障害を持つ人も既に含まれているといいます。中には、親が安楽死を希望した障害児や終身刑で収監されている囚人も対象になるのではないか、という予測まで存在します。

議題は既に、終末期患者からQOLの低い人々へとすり替わっており、「生かすに値する命かどうか」の線引きがオランダ社会に広がり共有されています。医療現場でも「医療コストを割くに値する命か」の線引きがなされ、医師の独断で勝手に延命治療を打ち切ってしまう事例が出てきたと児玉さんは語ります。「滑り坂」を転げ落ちた結果、このような「間引き」が横行しつつあるというのです。

安楽死の対象が拡大していくと、介護家族による「自殺幇助(ほう助)」も許容されるようになってきました。例えば、寝たきりの身内に毒を盛るようなケースは、自己決定云々すら抜きにした殺人行為です。それにもかかわらず、「身内が要介護で辛かったね。誰だって死にたいはずだよね」と世間や司法までもが同情し、「思いやりのある行為」として称賛すらしています。このまま「身内とて要介護なら死なせてもいい」となるのも、ひとつの「滑り坂」でしょう。

重度知的障害の娘を介護し続ける身として、児玉さんは「どんなに愛情が深い家族でも、介護負担が長く続けば虐待する可能性や疎ましくなる瞬間は必ずある」と、辛さへの理解を示します。その上で「自分が家族介護者だからこそ、家族を手にかける凶行を『愛情ゆえ』と社会が容認していく怖さを感じる」と述べました。

死ぬ権利と自己決定

安楽死賛成派はしばしば「生きる権利があるなら死ぬ権利もあるはずだ」「自己決定に基づいて進めれば問題ない」と口にしますが、児玉さんはその両者についても以下のように語りました。

「死ぬ権利」について
積極的安楽死を「死ぬ権利」と呼ぶならば、「医療によって殺してもらう権利」とも言い換えられる筈です。しかし、そのような権利を保障したいならば、社会は医療に対し死なせることを認めるか託すかしなければなりません。
「死ぬ権利」を主張する人たちは「死は自分だけのものだから、自分で決めていい」と考えているようですが、そのように自己完結しているものでしょうか。我々人間は想像以上に多くの人々と関わっていますし、頭で考えることだけが全てではありません。
夫がスイスの自殺幇助機関で自死したという女性はこう言いました。「『死ぬ権利』を支持する人の言い分は、頭では分かるし反論も出来ない。しかし心や魂の領域で首肯しがたい、しっくりこないものがある」

自己決定は曖昧で不安定
「自己決定」とは、頭の中で理路整然と考えて結論を出すイメージをお持ちでしょうが、実際は理屈だけでものを考えているわけではありません。色々な感情や思いの中で揺らぎながら生きているのが人間です。人間の意思とは曖昧なもので、他人との間で初めて見えてくるところもあるでしょうし、自分一人では完結できないものだと思います。
ベルギーにこんな事例があります。20代の精神障害者が、これ以上辛くて生きていけないと安楽死を希望し、日時まで決まっていました。ところが実行日になって安楽死を撤回したのです。実行の数時間前に友人が来訪したそうで、どのような会話が交わされたかまでは分かりませんが、友人が来たことで死を思い留まったのは確かでしょう。この事例が教えてくれるのは、人の意思や自己決定がいかに不安定で曖昧なのかということです。

なぜ安楽死を支持するのか

ここからは私見になりますが、ネット上で安楽死を支持する人には大きく分けて2タイプあるのではないかと考えております。ひとつは「自分に安楽死を使いたい」、もうひとつは「あいつらに安楽死を使わせたい」です。該当しない支持理由もあるでしょうが、概ねこれら2つに大別できるのではないでしょうか。

前者は、もし自分が寝たきりで会話も食事も出来なくなる時に備え、安楽死制度を立ててもらおうという発想が主です。「周りに迷惑をかける前に人生の幕引きをさせてくれ」という要望は、健康寿命と実際の寿命が乖離して久しい現代であれば、寧ろ自然な考えでしょう。

しかし、自分が安楽死を使いたいという人の中には、ただの自殺志願者や反出生主義者も紛れ込んでおり、「公的に認められた自殺の手段」として安楽死を欲しがっています。自分の「死ぬ権利」さえ認められれば後は野となれ山となれ、滑り坂など知ったことかという性急な考えです。これでは大衆の「生きる権利」が押し退けられてしまうでしょう。周りを巻き込む拡大自殺を起こし、「死ぬなら一人で死ねばよかったのに」と有象無象から吐き捨てられた者たちと何が違うというのでしょうか。

後者の「他人に安楽死を使わせたい」は更に危険な思想といいますか、優生思想丸出しの者に多い意見です。なにせ植松聖死刑囚も安楽死制度に全力で賛成していましたからね。「安楽死」を「断種」「不妊」と言い換えればそのまま優生保護法になってしまいます。

賛成理由など精々「(僕にとって)価値のない命が勝手にくたばってくれるから」程度にしか考えていないのではないでしょうか。安楽死制度が価値のない命を勝手に片づけてくれるとは、なんとも卑怯で野蛮で虫のいい発想だと思います。

何の恥じらいも持たず「生命の線引き」をしている方々へ忠告しておきますが、いつまでも自分が「生きていい側」に立てるなどと甘い考えは簡単に裏切られますよ。

見えざる防波堤など存在しない

安楽死議論で出される「滑り坂論法」は、時々詭弁として「ストローマン論法」「チェリーピッキング」などと同格に貶められることもあります。児玉さんの著書やコラムなども、詭弁だのポエムだの散々にけなしている人もネット上には居ます。

なんでも、安楽死制度が出来上がっても「滑り坂」として危惧されるようなことは起こらない、何故なら国や政府は「越えてはいけないライン」を弁えているからだ、という理屈だそうです。安楽死の対象ラインがいたずらに広がるのを、見えざる防波堤が止めてくれると信じているのでしょうか。

残念ながら、そういうゾーニング論は無意味であると断じざるを得ません。香川県のゲーム規制条例やフロリダ州のLGBTQ+議論規制法案など、政治家が自分の好き嫌いで法律まで動かした事例をご存知でしょうか。「規制」を好む者が政治中枢に入り込んでいれば、ゾーニングなどいつでも恣意的に動かせる物体に過ぎず、その「規制」は「生きること」すらも例外でないとオランダ社会が証明してしまいました。

まして日本には「同調圧力」があります。「せっかく安楽死制度があるのに、アイツはまだ使っていないのか」という有形無形の圧力に耐えかねた選択が「自己決定」「自己意思」と呼べるのでしょうか。もはや「自己決定に基づけば~」の言い訳も崩壊しています。

オランダの元推進派すら「こんなはずじゃなかった!」と嘆き持て余しているのが安楽死制度という「魔物」です。これを日本でも飼い慣らそうとするのは何もかもが「百年早い」と言わざるを得ません。

参考サイト

【“安楽死”をめぐって(4)】フリーライター・児玉真美さんに聞く[前編]
https://www.nhk.or.jp

「マイルドな優生思想」が蔓延る日本に「安楽死」は百年早い
https://gendai.ismedia.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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